わかば

僕の女友達は、タバコを吸う。銘柄はいつも決まってわかばだ。年寄りのおじさんしか吸うイメージがない人も多いだろうが、彼女はいつも不機嫌そうにタバコを吸い、ため息をつくように煙を吐き出す。まるでタバコを好きで吸ってるわけではなさそうに。

「タバコ、嫌いなの?」

僕の質問に女友達はんーっとわざとらしく考える素振りを見せてから、タバコを灰皿に押し付けた。騒がしい居酒屋で、タバコの煙だけがゆっくりと空気中に静かに溶けていく。

「嫌いだよ」

「じゃあなんで吸うの?」

「愛した男が吸ってたから」

中身のなくなったわかばの袋をぐしゃりと潰して、黒いバーキンからまた新しいわかばを出した。彼女は多分吸うタイミングとか吸いたい気分とかはもう無意識なんだろう。

彼女は恋多き女だ。男に振られるたびに僕に連絡をしてくる。彼女が酒でフラフラになるまで飲んで、新宿を練り歩く。その間彼女はいつも叫び散らしている。「クソ野郎」だの「腐れちんこ」だの下品な言葉ばかりだが、それは彼女の本心ではない。腐れちんこと相手を罵っておいて、その実彼女は泣いているのだ。そして気がすむとタバコに火をつけて「もういいや」とつぶやいて、その恋に終わりを告げる。僕はそれまで、彼女の三歩後ろを静かについて行くだけだ。そんな彼女が愛し、今も忘れないようわざわざわかばというタバコを吸う理由を、なんとなく知りたくなった。

「正直、僕と出会った頃には吸ってたもんね」

「そうだね」

わかばって美味しいイメージないなあ」

「マルオのポールモールも大概でしょ」

いつの話をしてるんだ、と言い返すのはやめた。もうタバコなんてやめたし、これからも吸うつもりもない。僕は彼女のように誰かを想って吸ってるわけでも、依存してるわけでもない。ただ人生の中で経験してみたかっただけだ。

「気になるなあ、愛した男のこと」

「気になるの?なになに嫉妬?」

「するわけないだろ」

彼女は少し楽しそうにタバコの煙を肺に入れる。今度は鼻から煙を出した。千と千尋の神隠しの湯婆婆を思い出した。

「お父さん」

「は?」

「愛した男って、お父さん。お父さんの名前がわかばなの」

へえ、と呟いた。そういえば彼女もまた、難儀な人生を送っていたのだった。昔見せてもらった両親の写真は、母親しか写っていなかった。お世辞にも綺麗な人とは言いがたく、ならば彼女の美しい遺伝子はどこから来たのだろうと疑問に思っていたのをすっかり忘れていた。恐らく、その父親わかばさんの血なのだろう。

「お父さんね、そりゃもうモテたみたい。だからお母さんのことなんて見向きもしなかったのね。きっとお母さんのことは暇つぶしだったんだよ」

何も思っていない。彼女はそんな表情を浮かべていた。

「お母さんね、私からみてもめんどくさい女だもん。不細工なのに綺麗になる努力はしないし、それなのに愛されたいって思ってる。お父さんのこともきっとなんとか身体の関係にもつれ込んで中出しさせたのね。女って怖い怖い」

お前も女だけどな、とは言わなかった。憶測や自分のかんがえだけでは物事を言わない彼女のことだから、多分ほぼ真実に近いのだろう。

「だからね、これは呪い。私がわかばって奴から生まれたって忘れないための呪いなの」

彼女はタバコを押しつぶしながら綺麗に笑った。ここ何年かで1番美しい笑顔だった。彼女は父親の血からはきっと逃げられない。若くして身体を売り、今でこそ真っ当な職につけどそれを拭い去ることはできない。父親と母親の呪いからも逃げられない。彼女は父親譲りの美しい容姿と、母親譲りの愛されたいという思いを、一生抱えて生きていくのだ。彼女きっとそれをわかっているからこそ、自らをタバコで縛り付けて少しでも早く死のうとしているのだ。