僕の生まれた事実

皆さん知っての通り、僕は生みの親に捨てられた、いわば捨て子というやつだ。育ての親は相当クレイジーだが僕を社会で働けるくらいにはきちんと育ててくれた。感謝しているが、自分が捨てられたという事実はいつまで経っても捨てられない。生みの親の名前も顔も知らず、21年間生きてきたが今年の誕生日、とある転機を迎えた。僕にとっては人生の全てに関わることだった。それをここに吐き出していこうと思う。

 

僕は6月某日、誕生日を迎えた。22歳になるその日の前日、僕のいた孤児院でいわゆる院長的な立場にいた広尾さんから連絡がきた。「渡したいものがあるから会いたい」と電話で神妙に言った広尾さんの表情は多分硬かっただろう。誕生日当日、僕は広尾さんに会うことにした。広尾さん家近くで待ち合わせをし、喫茶店に入る。コーヒーの匂いが充満した店内は僕にはちょっとした地獄のようだった。その中、広尾さんに渡されたのは薄汚れた茶封筒だった。僕の生みの親からの手紙らしい。22年前、僕と共に捨てられた茶封筒は、広尾さんの手で大切に保管されており、22歳になったら渡そうと決めていたと言われた。なぜ22歳なのかは甚だ疑問だが、僕はその茶封筒をリュックにしまって広尾さんと別れた。帰路につく中、僕は背中によくわからない熱をかかえたまま電車に乗りこんだ。1人で読むというのは、小心者の僕には無理なことで、でも一緒に読んでくれるような人も心当たりがなかった。だから僕はたくさんの人でぎゅうぎゅう詰になっている電車の中でその茶封筒を開けた。中には丁寧に三つ折りにされた白い便箋が2枚と、写真が入っていた。1枚目の便箋には「生まれたてのあなたへ」と始まりがあり、22歳になった我が息子への未来への言葉が綴られていた。綺麗な少し丸みのある字は女性らしさがまざまざと出ていて、これが僕の母親の字なのか、とどこか他人事のように思った。

恋人はいるのかな?学校には行ってるのかな?毎日楽しく過ごしたいますか?あなたが生まれた時、私は天にも上る気持ちでした。あなたが22歳になった時、私はきっとこの世にはいないと思いますがあなたが日々を健やかに過ごしていることを願います。生まれてきてくれてありがとう。あなたを愛しています。

そんな簡潔な文章の最後は、ままより、でしめられていた。そしてもう1枚の便箋は角ばった字で「申し訳ないが、お前は死んだことにさせてくれ」と一言、綴られていた。多分、血の繋がった父親からの手紙なのだろう。申し訳なさなど1ミリも感じられない、罪を体現したような手紙だった。

そして写真には生まれて間もない赤ん坊を抱く女性が写っていた。赤ん坊を真っ直ぐ見つめる女性の目は愛おしそうに細められており、裏側を見ると「ハルとアキ」と僕の生年月日が書かれていた。

僕の愛された証、僕が生まれてきてしまった罪。全てが茶封筒に納められていた。満員電車の中で涙が止まらなくなり、周りに悟られないようにするのが精一杯だった。初めて他人に全く興味を示さない満員電車に感謝した。ハルという産みの母がいたという事実、それだけで僕は十分だった。例え会ったことのない父親の中で僕が死んでいたとしても、殺さずにいてくれたことは感謝したい。世の中たくさんの不幸があふれているが、確かに僅かでも愛があった。僕はそれを今年の誕生日に知った。

わかば

僕の女友達は、タバコを吸う。銘柄はいつも決まってわかばだ。年寄りのおじさんしか吸うイメージがない人も多いだろうが、彼女はいつも不機嫌そうにタバコを吸い、ため息をつくように煙を吐き出す。まるでタバコを好きで吸ってるわけではなさそうに。

「タバコ、嫌いなの?」

僕の質問に女友達はんーっとわざとらしく考える素振りを見せてから、タバコを灰皿に押し付けた。騒がしい居酒屋で、タバコの煙だけがゆっくりと空気中に静かに溶けていく。

「嫌いだよ」

「じゃあなんで吸うの?」

「愛した男が吸ってたから」

中身のなくなったわかばの袋をぐしゃりと潰して、黒いバーキンからまた新しいわかばを出した。彼女は多分吸うタイミングとか吸いたい気分とかはもう無意識なんだろう。

彼女は恋多き女だ。男に振られるたびに僕に連絡をしてくる。彼女が酒でフラフラになるまで飲んで、新宿を練り歩く。その間彼女はいつも叫び散らしている。「クソ野郎」だの「腐れちんこ」だの下品な言葉ばかりだが、それは彼女の本心ではない。腐れちんこと相手を罵っておいて、その実彼女は泣いているのだ。そして気がすむとタバコに火をつけて「もういいや」とつぶやいて、その恋に終わりを告げる。僕はそれまで、彼女の三歩後ろを静かについて行くだけだ。そんな彼女が愛し、今も忘れないようわざわざわかばというタバコを吸う理由を、なんとなく知りたくなった。

「正直、僕と出会った頃には吸ってたもんね」

「そうだね」

わかばって美味しいイメージないなあ」

「マルオのポールモールも大概でしょ」

いつの話をしてるんだ、と言い返すのはやめた。もうタバコなんてやめたし、これからも吸うつもりもない。僕は彼女のように誰かを想って吸ってるわけでも、依存してるわけでもない。ただ人生の中で経験してみたかっただけだ。

「気になるなあ、愛した男のこと」

「気になるの?なになに嫉妬?」

「するわけないだろ」

彼女は少し楽しそうにタバコの煙を肺に入れる。今度は鼻から煙を出した。千と千尋の神隠しの湯婆婆を思い出した。

「お父さん」

「は?」

「愛した男って、お父さん。お父さんの名前がわかばなの」

へえ、と呟いた。そういえば彼女もまた、難儀な人生を送っていたのだった。昔見せてもらった両親の写真は、母親しか写っていなかった。お世辞にも綺麗な人とは言いがたく、ならば彼女の美しい遺伝子はどこから来たのだろうと疑問に思っていたのをすっかり忘れていた。恐らく、その父親わかばさんの血なのだろう。

「お父さんね、そりゃもうモテたみたい。だからお母さんのことなんて見向きもしなかったのね。きっとお母さんのことは暇つぶしだったんだよ」

何も思っていない。彼女はそんな表情を浮かべていた。

「お母さんね、私からみてもめんどくさい女だもん。不細工なのに綺麗になる努力はしないし、それなのに愛されたいって思ってる。お父さんのこともきっとなんとか身体の関係にもつれ込んで中出しさせたのね。女って怖い怖い」

お前も女だけどな、とは言わなかった。憶測や自分のかんがえだけでは物事を言わない彼女のことだから、多分ほぼ真実に近いのだろう。

「だからね、これは呪い。私がわかばって奴から生まれたって忘れないための呪いなの」

彼女はタバコを押しつぶしながら綺麗に笑った。ここ何年かで1番美しい笑顔だった。彼女は父親の血からはきっと逃げられない。若くして身体を売り、今でこそ真っ当な職につけどそれを拭い去ることはできない。父親と母親の呪いからも逃げられない。彼女は父親譲りの美しい容姿と、母親譲りの愛されたいという思いを、一生抱えて生きていくのだ。彼女きっとそれをわかっているからこそ、自らをタバコで縛り付けて少しでも早く死のうとしているのだ。

クリスマスイブのイブのこと④

そう、それで僕たちはそれから会うこともなかったんだ。見送りにも行かなかった。出立日も聞いてなかったしハルから連絡も来なかった。ただ僕の頭の中にはハルのあの気丈な、しゃんとしたあの姿がずっと張り付いていて離れなかった。色んな女の子とキスをしたし、セックスもしたけれど、ハルとの食卓に勝る幸福はどこでも得られなかった。僕は多分、虚しくて悲しかった。自分から別れると決めたのに。なんてわがままで仕方ない人間なんだろう。あの時は彼女のために、なんて言っていたけれど結局は自分のためにハルと別れたんだと気づいてから、さらに情けなくなってしまった。僕はハルと付き合いながらも遠く離れてしまうことが怖かったんだ。そして日本に帰ってきたハルを抱きしめられる自信がなかった。だからといって結婚しよう、とも当然言えなかった。

僕はハルに自分の身の上話をしていない。僕は両親に捨てられた身で、今でこそ幸せだけれどたくさんの苦労をしたこと。自分の生みの親とは一生会うつもりもないこと。どこの馬の骨ともわからない僕を引き取ってくれた人がいること。だからこそ、結婚して子供がほしいと言われた時に、僕はとても怖いのだ。自分の生みの親が、もし病気持ちで、生まれてきた子供が僕を通してその病気の遺伝子を引き継いでしまったら。色んな最悪なことを考える。僕は僕がわからないからこそ、僕の遺伝子を引き継ぐ人をこの世に産み落とされることが怖いのだ。そんなことも、ハルに話すこともなかった。

でもある日、今年の9月くらいにハルから連絡が来た。変わってないメールアドレスから、僕に届いたその内容は「12月に帰るからよかったら会えないかな?」ということだった。僕は慌ててケータイを落とした。お陰で画面は今も割れたままだ。ハルからのメールに動揺した。仕事してる間、ずっとハルのことが頭から離れなくて、仕事が終わった後返信した内容は「いいよ、会おう」と、それだけだった。下心なんて一切なかったし、あわよくば関係を戻すなんてことも考えてなかった。ただ会える、それだけで僕はなんとも言えない気持ちになった。多分、嬉しかったんだと思うけどなんとも言えなかった。後悔のが大きかったから。後悔と、懺悔と、あとなんだろう。とりあえず僕らは会うことになった。12月23日に、ハルはお互いプレゼントを持って新宿で、と言った。

そして当日、僕はハルへのプレゼントを持って新宿の東口にいた。たくさんの人の中、どこからかクリスマスソングが聞こえる。僕はハルをすぐに見つけられた。あの頃とは違い、伸びた髪の毛を揺らして、ハルは僕に駆け寄ってきた。僕を見つけて駆け寄る癖は変わらないままだった。「久しぶり、だね」と笑ったハルの唇には赤い口紅が塗られていて、あの頃と変わったものもあるんだなとしみじみ思った。赤い口紅なんてしなかったくせに。「久しぶり」と笑ったつもりでいたけれど、僕は多分笑えてなかったし、元々そんな自信もなかった。僕とハルは歩いて、新宿の京都野菜が食べれる店に入った。ハルは僕に海外のこと、仕事のこと、色んなことを話してくれた。あの頃より綺麗になったハルはなんだか別人みたいだったけれど、ご飯をたくさん頬張るところも、幸せそうにおかずを食べるところも、何も変わってなかった。そしてご飯を食べながら幸福を感じる空間になるところも、お互い変わってなかった。「ハル、綺麗になったね」と言えば、ハルは嬉しそうに「ありがとう、頑張ったの」と言った。お互いご飯を食べて、デザートを食べる頃にプレゼントを交換した。開けるのは家に帰ってから、と約束して。店を出て、僕たちはクレープを食べて、その時も僕の仕事の話をしたり、他愛のない話しかしなかった。でも、駅で別れるとき、ハルは僕の手を握ってきた。向かい合っていたから握手みたいになったけれど。「マルオはさ、私のこと好きだったよね、あの頃」とハルは聞いてきた。「好きだったよ」と僕はハルを真っ直ぐ見ながら言った。「私もね、マルオのこと好きだった。だから仕事で転勤の話をされた時、私から別れなきゃって思ってた。年上だし、私のが大人だし。でもね、怖くて言えなかったの。マルオに簡単にいいよって言われたらどうしようとか、これっきり会えなかったらどうしようとか、私そんなことばかり考えてた。私は私のことしか考えられなかった。でもマルオのが大人だったよね。私に別れようって言ってくれてありがとう。私と別れてくれてありがとう。泣いたマルオみたのは、あの日が最初で最期だったなあ。ねえマルオ、私のこと、まだ好き?」聞いてきたハルの目にはたくさんの涙が溢れそうになっていて、僕は拭いたくなった手を握った。「好きじゃないよ、大切だった人だよ、ハルは」と言った。ハルは泣きながら「ありがとう」って言って、僕たちは別れた。僕はハルを見送ったあと、その場から動けずにしゃがみ込んで泣いた。1年前の別れた日のようだと自分で思った。

なんとか家に帰って、僕はハルから貰ったプレゼントを開けた。中には僕が今までハルにあげたものが入っていて、メッセージカードには「捨てられませんでした、ごめんなさい」とだけ書かれていた。ハルは、僕にちゃんと別れを告げに来たんだ。僕だって気づいてないはずないだろう、ハルの指輪に。そんなの気づかないわけないだろう。ハルは指輪こそしてなかったけれど、首元から覗く輝く指輪を僕はちゃんと見ていたし意味はわかっていた。だからプレゼントの中身を途中で抜いて自分のカバンに入れて、ハルに空の紙袋を渡した。ハルにもう、僕の気持ちをあげるわけにはいかないから。

さようなら、ハル。なんて、そんなこと一度も言えなかった。ハルはどうして僕に好きかなんて聞いたんだろう。あの時好きって言ってたら僕の元に来てくれたのだろうか。なんでハルは泣いたんだろうか。そんなこと気にするのは野暮なことなんだろう。女心なんて一生わからない。わからないままでいい。ハルは僕にとって最愛の人だった。それだけでいい。もう会うこともない。さようなら、ハル。

クリスマスイブのイブに、僕はきちんと失恋した。あの日消化不良だった恋はきちんと終わりを告げた。この話の中にフィクションはいくつか入ってるけど、大部分はノンフィクション。僕とハルという存在はノンフィクションで、ハルという名前はフィクション。そんなこと多分どうでもいいけど。結局僕はただの未練タラタラ男だったってだけのこと。それだけのことだった。

クリスマスイブのイブのこと③

僕は、多分こんな日が続いていくんだろうなって思ってた。ハルは2人でお花見に行って、夏は2人でベランダでアイスを食べて、秋は栗拾いに行って、冬は2人でコタツに入って、そんな風に一年が過ぎた。出会った頃、僕は高校生でハルは大学生。付き合った頃、僕は専門一年、ハルは社会人一年目。それから一年が経った。そんな頃、僕らに別れは来た。ハルの転勤話がきっかけだった。寒い冬だった。

転勤先が日本ならまだしも、ハルの転勤先は海外だった。簡単には会いには行けない場所だった。聞いた時、僕は「そっか」としか言えなかった。ハルは俯いたまま何も言わなくて、その日は別れた。僕は考えた。僕は20歳、ハルは24歳で、僕はハルから社会人になる。でもハルのようにきちんとした企業に入るわけではなく、フリーランスで働くと決めた矢先だった。収入も安定しないし、連絡もろくに取れなくなる。ハルが海外にいるなら尚更だった。海外という新たな土地でこれから飛躍していくハルの足枷にはどうしてもなりたくなかった。僕が自分で言うのもなんだけど、ハルは僕のことが大好きだった。ハルは僕のために、多分日本によく帰ってくることになると思った。それは違うだろう。ハルは海外に行くなら、そこで結果を出すまで日本に帰って来ない方がいいんだ。ハルは仕事をするのも好きだし、辛いことや苦しいことも自分で昇華できる出来た人間だった。何が書きたいのかわからなくなってきちゃったけど、なんだか1人でぐるぐる考えた結果、僕は別れた方がいいという結果を出した。ハルにその話をしたのは、考えた日から1週間くらい経ってからだった。

新宿東口で待ち合わせした僕らは、その日はどこの店にも入らずにぶらぶら新宿を歩いた。あの日とは違い、僕はすぐハルを見つけて手を繋いだ。歩きながら色んな店を見たけれど、どの店にも入らなかった。2人の好きな映画館にも入らなかった。ただひどく冷たくなった手をお互い手繰り寄せるように握ってるだけだった。どこを歩いてる時だったかな。そう、多分ビックロ辺り、で、僕が別れを切り出した。歩みは止めずに。「別れようか」と、一言だけ。そしたらハルは僕の手を解いて、立ち止まった。土曜日だったから人がたくさんいて、ハルのことを見失わないように、でも駆け寄ることもせずに僕はその場からハルをジッと見ていた。俯いてるハルが僕を見た時、僕はびっくりした。ハルは泣いてなかったから。何かしらあると泣いていたハルが、全く涙を見せずに人ごみの中でシャンと1人で立っていたから、僕は堪らなくなって、泣いてしまった。駆け寄ってきたハルは僕の手を握らずに、たださすった。まるでいつかの2人が逆転したみたいだった。それから2人で手を繋がず駅に向かい、別れた。それ以来、僕とハルが会うことはなかった。ただいつか、また会えたら、と言葉を残して、ハルは気丈に振る舞いながら改札の向こう側に消えた。初めてハルが大人に見えた瞬間だった。さよならハル、そう呟いて僕は駅構内で1人しゃがみこんで泣いた。これが僕とハルの別れ話。

クリスマスイブのイブのこと②

どこまで書いたかな、そうだ、友達になったところだったかな。

ハルはもう就活を終わらせていたし、僕も暇を極める学生ということもあり、2人で遊ぶ時間は増えていった。共通の友達もいないので、会うときは必ず2人になる。2人とも映画が好きだったから、いつも映画を観にいっていた。ハルのリクエストで遊ぶのは必ず水曜日(映画館はレディースデイ)。映画を観て、美味しいものを食べて、終電までにはお別れ、というのを繰り返して、春になった。

相変わらず僕たちは友達という関係を保っていた。その間に僕は彼女ができたことはない。ハルとセックスなんて当然していなかった。その当時の口ぶりからして、ハルも彼氏がいるということはなかったと思う。僕の中でハルはなんとなく他の友達とは違う位置にいたし、ちょっと特別だった。何よりも優先する人、というわけでもなかったけど。ハルにとっての僕も多分そんな感じ。

春になり、社会人になったハルとは、あんまり遊ぶ時間がなくなった。当然水曜日は仕事だし、土日だってなんだかんだ忙しそうにしていたから、会えても月に一度とか、そのくらいだった。会えない日々は僕も別の友達と遊んでいたけれど、なんとなくハルと会えないのを寂しく感じてた。美味しそうに何かを食べるハル、映画を観て鼻水垂らしてるハル、酔ったら大笑いして街中をスキップするハル、何しててもハルを思い出すようになっていた。5月、気づいたら僕はハルの職場前にいた。有名な企業だったから、検索したらすぐに住所が出てきたし、いつ仕事が終わるとかもわからなかったけど、ハルが出てくるまで待てばいい話だった。連絡もしなかった、仕事の邪魔になったら嫌だったから。夜の7時くらいから待ち始めてハルが出てきたのは夜の10時くらいだった。それまでずっと外で待っていたけど、色んな人に怪しまれてちょっと居心地が悪かった。僕を見つけたハルはびっくりした顔で「どうしたの?」って駆け寄ってきた。「どうもしないよ、会いたかっただけ」と確か言ったと思う。そしたらハルが嬉しそうに笑うから僕は確かそう、恥ずかしいけど思い出したら死にそうどうしよう。ハルをその場で抱きしめた、うん。ハルに触ったのはあのホームレス事件以来だった。ハルが「なに?なに?」って焦るから僕はとにかく落ち着いた声でって意識して「付き合ってほしい、です」って言った。一応年上だったし、今更敬語かよって感じだけど、真摯に告白したかったから。ハルは鼻をすすりながら「付き合う〜付き合います〜」って泣き叫んでた。場面場面で泣いてないか?と思いながら僕はおかしくて笑ってしまった。そしたらハルも笑って、ハルの職場ビルの下で、僕たちは大笑いした。5月12日のことだった。その日が僕たちの記念日になった。

それから僕もハルはしょっちゅう会うようになった。と言っても、ハルは仕事があるから平日の夜、ハルの家で僕がご飯を作って待つ、というのが普通になっていた。過ごすのは大抵ハルの家で、僕が暇な時はご飯を作って待って、僕が忙しい時は数日会わなかったり、そんな日々を過ごしていた。

ちなみにハルは魚が好きで、特に鯖が好きだった。僕も鯖が好きだから、よく献立は鯖の味噌煮になった。ハルは料理ができない。掃除洗濯は人並みにしていたけれど、料理がからっきしできない。だから会えない時は、僕がよくハルのために作り置きをした。何日か分のおかずを冷凍して、それを食べてもらっていた。強制じゃないよ。僕がしたかったからしてただけ。ハルが食べてる時の笑顔が好きだったし、何よりも2人でご飯を食べてる時が1番幸せだった。セックスするよりも、キスをするよりも、抱きしめ合うよりも、幸せだった。僕もハルも、なんでもないそんなことが、幸せでたまらなかったんだ。

クリスマスイブのイブのこと①

12月23日、クリスマスイブのイブに僕は元彼女と会う約束をしていた。この元彼女のことを、まず説明する必要があると思うので、これからつらつら書いていく。

 

この元彼女(この先はハルと呼ぶことにする)は僕が学生時代に付き合っていた年上の彼女である。4歳上だったハルは、出会った時はもう大手の企業に就職が決まっている大学4年生だった。

出会いは電車の中で僕が倒れたところから始まる。当時、学生の僕はやっぱり今と同じで体調を崩しがちだった。その日も多分、熱があって満員電車に揺られていたんだと思う。あんまり覚えてないけど、その中でドアに激突同然でそのまま倒れた。覚えてるのは焦ったような何か言ってる声で、目が覚めたら病院だった。ベッド脇には見たことない女の人がいて、僕が目が覚めたとわかると「気分、どうですか?」と聞いてきた。それがハルとの出会いだった。確か紺色のダッフルコートに白のマフラーをしていて、なんだか綺麗な人だなって印象だった。ハルは僕が倒れてから今までつきっきりでいてくれたらしい。なんて良い人、というのが印象だった。そして当たり前にじゃあお礼がしたいから連絡先教えてください、となり、連絡先を交換した。ハルは最初頑なに断ったしそそくさと帰ろうとしていたけれど、でもせめて、と僕が無理矢理引き止めて無理矢理連絡先を交換した、に近いかもしれない。別にこの時下心はなかった。ただ単にお礼をしたかっただけだ。

数日メールのやりとりをして、会う約束を取り付けた時にはちょっとは下心はあったかもしれない。セックスできたらなあ、美人だったし。なんて、多分そんなこと考えてた。下半身で生きてた部分は否めない。会う日、新宿の東口で待ち合わせをしていた。確か金曜日で、人がたくさんいてハルを見つけきれなくて電話でお互いやりとりをして、やっと再会した。「こんにちは」「こんにちは」なんてぎこちなく挨拶して、ハルは「本当に大丈夫だったんですよ」と僕に言った。多分、お礼のことだと思う。僕は「気持ちなので受け取ってください、それくらい僕は嬉しかったし助かったんですよ」と言いくるめて、2人で歩き始めた。11月くらいだった。別に話すこととかないし、なにを話せば良いかわからなかったから、ハルの大学の話とか、僕の学校のこととか、そういう話しかしなかったと思う。お礼といってもハルのリクエストでケーキだったから、どっかのカフェに入って2人でケーキを食べて、本当に2時間くらいでその時間は終わった。あっという間だった。緊張してたし、頭の中から下心はどっか消えていた。なんだかハルが、そういうこととはかけ離れた感じの女性だったから。

それで2人でまた駅へ向かう道で、ちょっとした事件は起こった。いつもは大人しいはずのホームレスのおじさんが、ハルの腕を突然掴んだ。ハルはすんごいびっくりしてて動けなくて、僕がとっさにハルの腕を引っ張ったら手は簡単に離れたけど、ハルはびっくりしすぎてちょっと震えてた。早歩きでハルの腕を引っ張ってその場から急いで離れた。振り向いたらハルは泣いてて「ええ、泣いたどうしよう」って、これ正直な僕の気持ちね。ハルは下向いてボロボロ泣いてるしなにも言わないし、とりあえず僕はハルの手をさすった。泣き止むまでずっとさすってた。抱きしめたらロマンチックだったんだろうけど、なんかそうもいかないじゃん。別に友達でもなんでもないし、そんなの許されるのキムタクくらいなわけだよ。僕じゃ許されないわけ。多分30分くらいだったかな。ハルの顔は涙の筋の部分だけ赤くなっちゃってて、なんだか痛々しかった。しばらくしたらハルが「もう大丈夫です」って言って乱暴に涙の跡を拭って、僕はハルの手を触ったまま「怖かったね」ってあやすように言ったらまた泣いちゃって、ハルは「怖かった〜〜」って駄々こねる子供みたいになっちゃって、僕はなんだか少し笑っちゃったんだよね。こんな4歳も年上の、もう社会人になるお姉さんがすごい泣いてんの、子供みたいに。なんか可愛いなって。まあその日はハルの集団が危なくなっちゃったし、グズグズしてたハルの手を引いて、電車に無理矢理押し込んだんだよね、確か、うる覚えだけど確かまだ泣いてた気がする。次の日、ハルからすいませんでしたとの内容の連絡がきて、いえいえ、みたいなやり取りをして、なんでか忘れたけどまた会う約束をして、そういうことを繰り返して、なんだかたまに遊ぶ友達みたいな感じになってきた。

 

 

なんだこれ

クリスマスのイルミネーションが燦然とする12月に、君は死んだ。

新宿ルミネ前、最近新しい建物が出来たその目の前の交差点で、君は赤信号を堂々と渡り、僕の前で白いスポーツカーにはねられて死んだ。あんまり赤信号を堂々と渡るものだから、君のラストランウェイを誰もがぼうっと眺めていた。例に漏れず、僕も。黒いヒールを軽快に鳴らして、黒いスカートを風になびかせて、君は最後空に飛び上がるようにして絶命したけれど、その瞬間がとても長く感じた。さながらタルコフスキーの映画のようだった。

「私ね、あなたの最後の女になりたいの」

君の口癖だったその言葉通り、僕の中で最後の女になりそうだよ。別に死ななくたって僕の中では最後の女だった。そう伝えたじゃないか。でも多分言葉だけじゃ満足できなかったんだね、君のことだから。世界の全てを疑ぐりかかってる君のことだから。なんて皮肉で美しいんだろう。

地面に寝転ぶ君の背中には赤い翼が生えていて、僕は思わず駆け寄って君を抱きしめたけれど、不思議だね、本当に軽かった。君の魂はもうどこにもいないんだね。飛び立ってしまったんだね。クリスマスを待たずにして、君はサンタクロースに連れていかれてしまったんだ。嫌だなあ、本当に。君のいない世界なんて嫌だなあ。道路の真ん中、君の亡骸を抱えながら泣き叫ぶ僕は、君を失った悲しみなんてなくて、ただ君のいないこれからのことを絶望して、泣いたんだ。勘違いしないでね。君がいなくなって悲しいなんて思わないよ。でも君は間違いなく僕の中で最後の女だ。さようなら、僕のドロシー。